文の世界とは、文により想起される自我である。
文とは、理と意に応じ、配列された字である。
字とは、自我を任意に想起させる像である。
像とは、自己の様に、自我を想起させる実在である。
像は、理と意に応じ、二つ据えられることにより意が示される。
二つの像は、二つの表象を想起させ、二つの表象は対比され、意として認識される。
像は、据えられ、守護され、視られる。
字は、理と意に応じ、二つ記されることにより意が示される。
二つの字は、二つの記号を想起させ、二つの表象を想起させ、二つの表象は対比され、意として認識される。
字は、記され、運ばれ、観られる。
斯くて、意は故郷を越える。
文は、理と意に応じ、字を配列することにより意が示される。
文は、記号を想起させ、表象を想起させ、表象は対比され、世界として認識される。
文は、書かれ、運ばれ、読まれる。
斯くて、世界は故郷を越える。
故に、文の世界に応ずる人の在り方は徳ではない。
意の表れは、自分と他人を明示する。
故に、文の世界に応ずる人の在り方は、仁でも、義でも、礼でもない。
且つ、意に制限はない。
故に、礼義仁徳全てが綻び、乱れ、争い、戦争となる。
故に、礼義仁徳に応じ、意は制約され、像、號、歌、話、文は纏められる。
礼に応じ、像、話、文に纏められる意は、法と呼ばれる。
義に応じ、像、歌、話、文に纏められる意は、文化と呼ばれる。
仁に応じ、文に纏められる意は、文明と呼ばれる。
徳に応じ、像、號、歌、話、文に纏められる意は、宗教と呼ばれる。
コメント