異端の数 ゼロ

『異端の数 ゼロ』数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念 Charles Seife(著) 林大(訳) ハヤカワ文庫ノンフィクション 2009 

ネット上の仮想空間は、0と1によって構成されています。

現在この仮想空間の覇権を賭けた戦いが繰り広げられています。

しかし、0と1って何なんでしょう。

こんなものに全人類が振り回されるなんて、何だか脱力してしまいます。

しかし、皆が知っているこの数字、実はとんでもない代物だったのです。

無限の世界を生み出したゼロの正体とは、一体・・・

第0章 ゼロと無

「本書は、ゼロの物語である。ゼロが古代に生まれ、東洋で成長し、ヨーロッパで受け入れられるために苦闘して、西洋で台頭し、現代物理学にとって常なる脅威となるまでの物語だ。ゼロを理解しようとし、この神秘的な数の意味をめぐって争った人々――学者と神秘主義者、科学者と聖職者――の物語である。西洋世界が、東洋からきたある概念から身を守ろうと(時として暴力的に)試み、失敗した物語だ。そして、一見無害に見える数が突きつけるパラドクスに、二十世紀最高の知性さえうろたえ、科学的思考の枠組み全体が崩壊しそうになったという歴史である。」

「ゼロが強力なのは、無限と双子の兄弟だからだ。二つは対等にして正反対、陰と陽である。等しく逆説的で厄介だ。科学と宗教で最大の問題は、無と永遠、空虚と無限なるもの、ゼロと無限大をめぐるものである。ゼロをめぐる衝突は、哲学、科学、数学、宗教の土台を揺るがす争いだった。あらゆる革命の根底にゼロ――そして無限大――が横たわっていた。」

「ゼロは、その歴史を通じて、排斥され追放されながらも、それに立ち向かうものを常に打ち負かしてきた。人類は力ずくでゼロを自らの哲学に適合させることはできなかった。それどころか、ゼロは宇宙に対する――そして神に対する――人類の見方を形づくったのだ。」

第1章 無理な話ーゼロの起源

「何かがないということを表現するのに数は要らないから、事物が存在しないという状況に記号を割り当てることなど誰も思いつかなかった。だから、人間は長い間ゼロなしで済ませていたのだ。ゼロなど要らなかった。ゼロは思い浮かばなかった。」

「古代文明がアシを粘土板に押しつけ、石を彫り、羊皮紙やパピルスにインクを塗りたくるようになったときすでに、数体系はしっかり確立されていた。」

c.f. 文字の起源をトークン(交易時に数を記録するために使われた小さな粘土製の像)に求める説。

「ゼロがなくともエジプト人は、たちまち数学の達人になった。怒れる大河のおかげで、ならざるをえなかった。ナイルは毎年、堤からあふれ、デルタを水浸しにした。」

「古代のファラオは測量技師に命じて、損害を評価させ、境界の標識を置きなおさせた。そして幾何学が生まれた。」

「だが、エジプト人が幾何学上目ざましい仕事をしたにもかかわらず、エジプトにはゼロは見当たらない。」

「エジプトでは、どんなに優れた数学者も、現実世界の問題と関係のないことに幾何学の原理を用いることはできなかった。」

「ギリシャ人は違っていた。抽象的なものと哲学的なものを受け入れ、数学を古代での絶頂に導いた。だが、ゼロを発見したのはギリシア人ではなかった。」

古代バビロニアでは、六十進法が使われた。そこで、60のn乗の数を、全て同じ記号で表記した。算盤の様な計算盤の使用に対応した結果であった。これにより、60の塊を次の行へと移動させて元の行の一単位と同じ記号に圧縮することで、盤面が簡潔に表記され計算が容易になった。

判りやすく十進法で説明すると、10の0乗の1、10の1乗の10、10の2乗の100、10の3乗の1,000・・・これら全てを10と表記したということである。10の記号がどの列にあるのか判れば、その10がどの桁の数を表しているのか判るのだが、もし判らなければ、10なのか100なのか1,000なのか判りようがない。しかし、

「バビロニア人には、書かれた記号がどの列(桁)にあるのかを表示するすべがなかった。」

「ゼロこそが問題の解決策だった。紀元前300年頃、バビロニア人は二本の傾いたくさびを用いて、何もないスペース、つまり計算盤の空っぽの列を表現するようになった。」

この事実により、計算盤が数字表記に先行していたことが推測される。計算盤があり、不完全な数字表記が登場し、空位を発明することにより改善されたと考えるのが妥当であろう。

「ゼロは有用だったが、空位を示す目印にすぎなかった。」

「ある数を恐れるというには想像しにくい。だが、ゼロは空虚――無――と分かちがたく結びついていた。空虚と混沌に対しては原初的な恐れがあった。」

「ある数にその数自体を足すと、違う数に変わる。1足す1は1ではない。2だ。2足す2は4である。だが、ゼロ足すゼロはゼロだ。これは、アルキメデスの公理と呼ばれる数の基本原理に反している。」

更に、

n x 0 = 0 (何を掛けてもゼロにしてしまう)

n / 0 = ∞ (あらゆる数を無限に増殖させてしまう)

n / 0 (=∞) x 0 = 0 (無限さえも消滅させてしまう)

「ゼロは、奇妙な数学的・哲学的性質のおかげで、西洋の根本哲学と衝突することになる。」

第2章 無からは何も生まれないー西洋はゼロを拒絶する

「ギリシア人は、幾何学志向だったエジプト人から数を受け継いだ。その結果、ギリシアの数学では形と数の間にこれといった区別がなかった。」

「ピュタゴラスにとって、比は音楽の美しさ、肉体の美しさ、数学の美しさを支配していた。自然を理解するのは、比率の数学を理解することに尽きた。」

「この哲学――音楽、数学、自然の互換性――は、初期のピュタゴラスの惑星モデルにつながった。ピュタゴラスが論じるには、地球は宇宙の中心にあり、太陽、月、惑星、恒星はそれぞれ、球の内側に固定されて、地球のまわりを回っているのだった。球の大きさの比はきれいに秩序だっていて、球が動くと、音楽が奏でられた。一番外側の惑星である木星と土星は、最も速く動き、もっとも高い音を出した。月などいちばん内側の惑星は低い音を出した。動いていく惑星は全部で、“天球のハーモニー”を生み出し、天空は美しい数学的なオーケストラだった。」

「比は、自然を理解するための鍵だったので、ピュタゴラスとそののちのギリシアの数学者たちは、比の性質を調べることに多くのエネルギーを費やした。そして、比を、調和平均など10種類に分類した。平均の一つは、この世で最も“美しい”数を生み出した。その数とは、黄金律だ。」

「ピュタゴラス学派にとって、比は宇宙を支配していたのであり、ピュタゴラスにとって真理だったこの考えはまもなく西洋世界全体にとって真理となった。美学、比、宇宙の間の超自然的なつながりは、西洋文明の中心的で永続的な教義一つになった。シェイクスピアの時代になっても、科学者は、大きさの異なる天球の回転について語り、宇宙全体に反響する天球の音楽を論じた。」

「宇宙の何もかもが比(ratio)に支配されていることをピュタゴラス学派は望んだが、そのためには、宇宙で意味をなすものすべてが、きれいな比率と関連づけられなければならなかった。」

しかし、

「無理数は、比の宇宙の基盤をおびやかすもので、ピュタゴラスにとって危険だった。しかも、泣きっ面に蜂で、まもなくピュタゴラス学派は、自分たちにとっての美と合理性の究極のシンボルたる黄金比が無理数であることを発見した。これら恐ろしい数のせいでピュタゴラスの教義が崩壊してしまうのを防ぐために、無理数は秘密にされた。」

「紀元前500年頃、バビロニアの文献に空位を表すものとしてのゼロが現われはじめた。当然、ゼロはギリシアの天文学界にも広まった。」

「ゼノンは紀元前490年頃に生まれた。」

「ゼノンの最も有名な難問である「アキレスのパラドクス」で、歩みののろいカメを追いかける脚の速いアキレスがいつまでたってもカメに追いつけないことをゼノンは証明する。」

「ギリシア人はこの問題に悩んだが、その根源を探り当てた。それは無限だった。ゼノンのパラドクスの核心にあるのは無限である。ゼノンは連続的な運動を無限の数の小さなステップに分割したのだ。ステップが無限にあるから、ステップが小さくなっていっても、競争はいつまでもつづくのだとギリシア人は考えた。」

「ギリシア人にはゼロがなかったが、私たちにはある。ゼロはゼノンの難問を解く鍵だ。」

微分積分を用いれば、アキレスとカメの距離はある点でゼロへと収束していく。正にその点こそが追い抜く瞬間である事が分かる。

「ギリシア人はこのちょっとした数学上の芸当をやってみせることができなかった。ゼロを受け入れなかったため、極限の概念をもっていなかった。」

つまり、収束するイメージを持てず、永遠に追いかけ続けるイメージしか持てなかった。

「このパラドクスは、ゼノンの哲学にぴったり合っていた。ゼノンはエレア学派の一員であり、この一派の創始者であるパルメニデスは、宇宙の本質は不変不動だと考えた。ゼノンの難問はパルメニデスの主張を裏付けるものだったように見える。ゼノンは、変化と運動がパラドクスをはらんでいることを示すことによって、すべては一つ――そして不変――であると人々を納得させたいと望んだ。運動は不可能だとゼノンは本当に信じていたのであり、ゼノンのパラドクスは、この理論の主たる裏付けだった。」

「アリストテレスは単純明快に、「数学は無限を必要としないし、用いない」と断言した。」

プラトンのイデア論を否定し、現象界に形相が内在すると考えたアリストテレスは、抽象的な思考による矛盾を単なる「人間の頭のなかにある構成物にすぎない(seife p.65)」と考え、ゼノンのパラドクスを、無限という、実在を確認し得ない妄想に基づくものとして片付けてしまった。そして、無限の介在しない有限の宇宙像を提唱する。それは、科学的に正しい宇宙ではなく、実存的に正しいと思われる宇宙であり、ピュタゴラスの宇宙観を継承するものであった。

「アリストテレスの宇宙(および、後にプトレマイオスがそれを改良したもの)では、惑星は水晶のように透明な天球のなかで動くとされた。」

「天球はそれぞれの位置でゆっくりと自転して、宇宙を満たす音楽を奏でている。」

「いちばん内側の天球は、そのすぐ外の天球に動かされているにちがいない。そして、後者は、そのまた外にあるもっと大きな天球に動かされているにちがいない。しかし、無限などない。天球の数は有限であり、あるものがその外にあるものに動かされるという事物の連なりが無限につづくわけではない。何かが運動の究極の原因であるはずだ。恒星が固定されている天球を動かしているものがあるはずである。それこそが第一動者、神だ。」

「キリスト教は、西洋世界を席巻すると、アリストテレスの宇宙観および神の存在証明と密接に結びついた。」

「アリストテレスの体系は隆盛をきわめた。」

そして、

「16世紀のエリザベス朝まで生きつづける。」

第3章 ゼロ、東に向かう

「紀元前四世紀にアレクサンドロス大王がペルシア軍を率いてバビロニアからインドに進軍した。インドの数学者がバビロニアの数体系について――そして、ゼロについて――はじめて知ったのは、このときだ。」

「インドはアリストテレス哲学の影響を受けなかった。アレクサンドロスはアリストテレスの教えを受けており、アリストテレスの思想をインドに持ち込んだのは間違いないが、ギリシア哲学が根づくことはなかった。ギリシアと違って、インドには無限なるものや無への恐れはなかった。」

「無と無限を積極的に探る社会だったインドは、こうしてゼロを受け入れた。」

「インドの数学はゼロを受け入れただけではなかった。ゼロを変容させ、その役割を、単に空位を示すというものから数としての役割に変えた。この生まれ変わりこそ、ゼロに力を与えたものだった。」

「五世紀頃、インドの数学者は数体系を変えた。ギリシア式からバビロニア式に切り換えたのだ。」

「インド数体系は、足し算や掛け算のような日常の作業の役に立ったが、インド数字の真の影響はもっとずっと深いものだった。数がやっと幾何学から区別されるようになった。」

「むしろ、数値――幾何学的な意味をはぎ取られた数――の相互作用を見た。ここに、代数と呼ばれるものが生まれたのである。」

ゼロの土地も、マイナス2の土地も、何れも土地が無いことに変わりはない。

故に、

「ギリシア人にとって負の答えは意味をなさなかった。」

しかし、

「インド人にとっては、負の数は文句なしに意味をなした。」

「七世紀のインドの数学者、ブラフマグプタは、数を割る規則を述べ、そこに負の数も含めた。「正の数を正の数で割っても、正である。正の数を負の数で割ると、負である。負の数を正の数で割ると、負である。」と書いた。」

「今や2-3が数であるように、2-2も数だった。ゼロだった。」

「しかし、インド人さえ、ほかの人々と同じ理由でゼロはかなり奇妙な数だと考えた。」

「ブラフマグプタは、0/0、1/0とは何かを見極めようとして失敗した。」

「やがてインド人は、1/0が無限大であることに気づいた。「ゼロを分母とする分数は、無限量と名づけられる」と、十二世紀のインドの数学者バスカラは書いている。バスカラは1/0に数を加えると、どうなるかを語っている。「多くを足しても引いても、何の変化もない。無限にして不変の神のなかでは何の変化も起らない」」

「神は見出された。無限大のなかに。そしてゼロのなかに。」

「711年、イスラム教徒はスペインを奪取し、フランスにまで侵攻した。東では751年に中国を打ち負かした。」

「中国に向かう途上、イスラム教徒はインドを征服した。そこでアラブ人はインドの数学について知ったのだ。」

「イスラム教徒は、自分たちが征服した人々の知恵を素早く吸収した。学者たちは文献をアラビア語に翻訳しはじめ、九世紀にはカリフのアル=マムーンが大きな図書館を創設した。バグダッドの知恵の館だ。ここは東洋世界の学問の中心となる。その最初の学者の一人が、数学者のモハメド・イブン=ムサ・アル=フワリズミだった。」

「イスラム教徒がゼロを受け入れるには、アリストテレスを斥けなければならなかった。イスラム教徒はまさにそれをやったのだ。」

「イスラム神学者たちは、アリストテレスによる神の証明を受け入れず、アリストテレス哲学の古くからのライバルである原子論に基づいて議論を立てた。」

「原子論者は無を必要とした。聖書は無からの創造について語っていたが、ギリシアの教義はその可能性を斥けていた。キリスト教徒はギリシア哲学の力の前にひれ伏し、聖書よりアリストテレスを選んだ。一方、イスラムは逆の選択をした。」

「ゼロは、新しい教えの象徴だった。アリストテレスを斥け、無と無限を受け入れる考えの象徴だった。」

「オリエントのセム族の文化を背景とするイスラム教徒は、神は宇宙を無から創造したと信じていた。」

「ユダヤ人がこれにつづいた。」

「中世初期のユダヤ人は、スペインでもバビロニアでもアリストテレスの教義を固く信じていた。」

「アリストテレス哲学は、イスラムの教えと衝突したのと同じように、ユダヤ教の神学とも衝突した。」

十二世紀のラビである

「マイモニデスはアリストテレスから、無限を否定することによって神の存在を証明するすべを学んでいた。」

「だが、同時に聖書などのセム族の伝統は無限と無の考えに満ちていた。」

「マイモニデスは、宇宙は常に存在していたというアリストテレスの証明には欠陥があると論じた。何といっても、聖書と矛盾していた。」

「アリストテレスがいくら真空を御法度としても、マイモニデスは、創造の御業は無からおこなわれたのだと述べた。それは無からの創造だった。この一言で、無は神聖なものを冒涜するものから神聖なものになった。」

「ユダヤ人にとって、マイモニデスの死後の時代は無の時代となった。」

「ゼロを西洋世界に再導入したのは、ピサのレオナルドだった。イタリアの貿易商の息子たっだレオナルドは北アフリカに旅した。そこで、若きピサのレオナルド――というよりもむしろフィボナッチの名で知られている人物――は、イスラム教徒から数学を学び、まもなくれっきとした数学者となった。」

「1202年に出版した『算盤の書(リーベル・アバキ)』」

「フィボナッチはイスラム教徒から数学を学んだので、ゼロを含むアラビア数字について知ってた。『算盤の書』にこの新しい体系を盛り込み、ついにゼロをヨーロッパに導入したのだ。この本は、複雑な計算をするのにアラビア数学がいかに便利かを示しており、イタリアの商人や銀行家はすぐに、ゼロを含め新しい体系に飛びついた。」

「しまいには当局も商業からの圧力の前に態度を軟化させた。アラビア式数法はイタリアで許され、まもなくヨーロッパ中に広まった。ゼロが到来したのだ――無とともに。」

第4章 無限なる、無の神ーゼロの神学

「ゼロはルネサンスの絵画すべての中心になっていた」

「無限のゼロの力をはじめて証明したのは、イタリアの建築家、フィリッポ・ブルネレスキだった。ブルネレスキは消失点を用いて写実的な絵を産みだした。」

「1425年、ブルネレスキは、フィレンツェの有名な建物である洗礼堂の絵の中心にそのような点を置いた。」

「事物は絵の奥の方に後退するほど消失点に近づく。そうして絵を見る者から遠ざかるほど圧縮される。ある程度以上遠く離れたもの――人間、木、建物――はすべてゼロ次元の点に押し込まれ、消え去る。絵の中心のゼロには無限の空間がおさまっている。」

「矛盾しているように見えるこの消失点のおかげで、ブルネレスキの絵は、実物と見分けがつかないくらい三次元の洗礼堂を見事に写し取ったものになった。現に、ブルネレスキが鏡を使って、絵と洗礼堂を見くらべたところ、鏡に映った絵は建物の幾何学的構造とぴったり一致した。消失点によって、二次元の絵が三次元の建物の完璧な模倣になったのだ。」

「ブルネレスキの同時代人であるドイツの枢機卿ニコラウス・クザーヌス(クザのニコラウス)は、無限を見て、ただちに宣言した。”Terra non est centra mundi”,つまり、地球は宇宙の中心ではないと。」

「ポーランドの修道士にして医師だったコペルニクスは、数学を学んだので、患者の治療に使うために占星術表をつくることができた。そして、惑星や恒星の問題をかじってみて、惑星の動きをとらえる古いギリシアの体系がいかに複雑であるかがわかった。プトレマイオスの時計仕掛けの天空――地球が中心にある天空――は、極めて正確だった。しかし、恐ろしく複雑でもあった。」

「コペルニクスの考えの威力は、その単純さにあった。」

「太陽が中心にあり、惑星は単純な円運動をしているとコペルニクスは想像した。」

「コペルニクスの体系は、データと完全には一致しなかった――太陽中心説は正しかったが、円軌道の考えは間違っていた――ものの、プトレマイオスの体系よりずっと単純だった。」

「1543年、」

「コペルニクスの本『天体の回転について』は強行パウロ三世に捧げられていた。しかし、教会は攻撃を受けていた。そのため、新しい考え――アリストテレスに疑問を投げかける考え――はもはや容認できなかった。」

「17世紀はじめ、やはり占星術師修道士だったヨハネス・ケプラーがコペルニクスの説を改良して、プトレマイオスの体系より正確なものにした。地球を含む惑星は、円ではなく楕円を描いて太陽のまわりを回るというのだった。天空の惑星の運動はこれで実に正確に説明できた。もはや天文学者は、太陽中心説は地球中心説より劣っていると反論することはできなかった。ケプラーのモデルはプトレマイオスのものより単純で、しかも正確だった。」

「1596年にフランス中部で生まれたデカルトは、ゼロを数直線の中心にもってくることになり、また、神の存在の証明を無と無限に探し求めることになる。」

「デカルトは数学者にして哲学者だった。もっとも長く残る遺産は、ある数学上の発明――今日私たちがデカルト座標と呼んでいるもの――かもしれない。」

「デカルトは、アラビア数字が普及しているヨーロッパに生きていたので、ゼロから数えはじめた。座標系のまさに中心――二本の軸が交わるところ――にゼロがおさまった。原点、点(0,0)はデカルト座標系の基礎だった。」

「デカルトはたちまち、自分の座標系がいかに強力なものであるかに気づいた。これを使って、図形を方程式と数に変えた。デカルト座標を使えば、あらゆる幾何学的対象――正方形、三角形、曲線――を方程式、数学的関係で表現できた。」

「デカルトは数と形を統一した。もはや幾何という西洋の学問と代数という東洋の学問は分離した領域ではなかった。二つは同じものだった。」

「デカルトにとってゼロは、無限同様、神の領域に潜むものであった。」

「古代人と同じく、デカルトは、無からは何も、知識さえも創造できないと考えた。」

「反宗教改革の申し子だったデカルトは、教会がアリストテレスの教義にもっとも頼っていたときにアリストテレスについて学んだ。その結果、デカルトは、アリストテレス哲学をたたきこまれ、真空の存在を否定した。」

「後に原子と真空について書いている。「矛盾を含むこうしたことどもについては、これらが起こりえないことは確実に言える。しかし、神にはこれらを引き起こすことができるということは否定すべきでない。つまり、神が自然法則を変えれば、ということだ。」」

「しかし、まもなくアリストテレスは無によって永久に地位を奪われることになる。」

「今日でも子供たちは「自然は真空を嫌う」という言葉を教えられる。この言葉がどこからきているのか、先生が理解していなくても。これは、真空は存在しないというアリストテレス哲学の延長である。」

「イタリアでは職人が、巨大な注射器に似た一種のポンプを用いて、井戸や運河から水を汲み上げていた。このポンプは、ピストンが管にぴったりおさまっていて、管の下の端を水中に入れ、ピストンを引き上げると、水が上がってくるのだった。」

「ガリレオは、ある職人から、このポンプに問題があると聞いた。水を33フィートぐらいまでしか吸い上げられないというのだ。その後は、ピストンを引き上げつづけても、水位は変わらなかった。これは興味深い現象であり、ガリレオは、この問題を助手のトリチェッリに任せた。1643年に、トリチェッリは、原因を突き止めようと、実験に取りかかった。一方の端をふさいだ管を水銀で満たした。そして、管を逆さにして、開いている端を、やはり水銀で満たしてある皿に突っ込んだ。」

「水銀はそのままではなかった。少し下がり、いちばん上に空間ができた。その空間には何があるのか。持続する真空がつくりだされたのは、歴史上はじめてだった。」

「トリチェッリがどんな大きさの管を用いても、水銀は、最高点が皿から30インチほどになるまで下がった。別の見方をすれば、水銀はその上にある真空と闘って30インチしか上がれないのだ。自然は30インチまで真空を嫌う。」

「1648年の秋、パスカルは直感に促され、水銀で満たされた管を義兄にもたせて山に登らせた。山頂で、水銀は30インチよりかなり低い高さまでしか上がらなかった。」

「パスカルにとって、この奇妙に思われる振る舞いは、管のなかの水銀を押し上げるのは真空への嫌悪ではないという証明だった。管のなかの水銀を押し上げているのは、皿のなかの水銀に上から圧力をかける大気の重みだった。」

「パスカルはこう書いている。「しかし、これまで誰も、こういう……見方をする者を見つけることができなかった。自然は真空に対して嫌悪を抱いていない、真空を避けようとはしていない、真空を難なく抵抗なく受け入れるという見方を」。アリストテレスは打倒され、科学者は無を恐れるのをやめて、無を研究しはじめた。」

私が思うに、「アリストテレス」の本質は、「天動説」でもなく、「自然は真空を嫌う」でもなく、ラファエッロの「アテネの学堂」の中でアリストテレスが地を指さしている事に象徴される様に、自然法則の存在に確信を抱いていた事だろう。故に、その存在を仮象と見做した師であるプラトンの、イデア界を否定したのである。

遠近法の発見以降、自然界の法則を解明していく大きなうねりは、アリストテレスの敗北というよりかはむしろ、アリストテレスのプラトンに対する完全勝利であると言い切っても過言ではなかろう。彼はその流れを、歓迎しこそすれ、否定などしようもない。

第5章 無限のゼロと無信仰の数学者ーゼロと科学革命

第6章 無限の双子ーゼロの無限の本性

第7章 絶対的なゼローゼロの物理学

第8章 グラウンド・ゼロのゼロ時ー空間と時間の端にあるゼロ

第∞章 ゼロの最終的勝利

私見

後日更新

コメント

タイトルとURLをコピーしました