西安事件

曾て中国共産党は、中国国民党に滅ぼされる運命にありました。

その状況を逆転させた事件があります。

「西安事件」です。

それには、ある人物の、ある悲劇が関わっています。

そしてそれは、日本人によりもたらされました。

歴史的経緯を、更に遡ることからご解説頂きました。

有り難う御座います。

1840 アヘン戦争

1856 アロー号事件

1860 洋務運動

軍事力の違いに目を覚まされた大清帝国は、西洋式近代化を目指す。

中体西用

中国伝統の文化・制度を本体として、西洋の近代的技術を利用することを掲げたスローガン。

イギリスの強さの根源である資本主義、民主主義、及び産業革命を導入しなかったため、結果的に失敗に終わる。

cf.日本 1872鉄道開業 1882日本銀行設立 1889大日本帝国憲法公布 

1894 日清戦争

1911 辛亥革命

1912 中華民国成立

アジア初の共和国。

初代臨時大総統 孫文

内閣総理大臣 袁世凱

→ 1912 大清帝国滅亡 2000年以上続いた帝政の終焉。

→ 袁世凱、臨時大総統の地位を要求。孫文、受諾。

→ 孫文、国民党を結成。

→ 1913 第一回国会開会

→ 国民党、第一党に。

→ 袁世凱、国民党の指導者宋教仁を暗殺。国民党の解散を命ずる。

→ 孫文、東京に亡命。

→ 袁世凱、初代総統に就任。議会を停止させ、独裁を布く。

1914 第一次世界大戦

→ 袁世凱、中立を宣言。

→ 大日本帝国、ドイツに宣戦布告。ドイツ領青島を占領。

→ 1915 大日本帝国、袁世凱に二十一箇条の要求を突きつける。

→ 袁世凱、受諾。

→ 国民の激しい反発。

→ 袁世凱、帝政復活を目論む。

→ 日英露、袁世凱に帝政延期を勧告。

→ 1916 袁世凱、帝政復活を断念。

→ 袁世凱、病没。

中国分裂

北洋軍閥

分裂

安徽派

直隷派

奉天派

中国国民党

1917 孫文、広州にて軍政府樹立。

中国共産党

1918 簫旭東、毛沢東ら、湖南省長沙で新民学界結成。

1919 共産党インターナショナル

主催 レーニン

通称コミンテルン

→ 三十カ国の共産党が参加。

→ 孫文に対し、統一戦線の結成を呼びかける。

1922 孫文・ヨッフェ共同宣言

1924 国共合作

スローガン 「反軍閥、反帝国主義」

1925 孫文死去

「革命未だ成らず」

→後継者 王兆銘 広東国民党政府樹立 主席就任

→実権は、軍部に影響力を持つ蒋介石。浙江財閥が接近→反共に傾斜。

1926 北伐開始

「打倒北洋軍閥」

国民革命軍総司令 蒋介石

→その背後では、ソ連から派遣された政治顧問ボロディンの画策により、国民党の乗っ取りと蒋介石の弱体化が謀られた。

→1927/3/10 ボロディンは、右派抜きで、武漢で中央全体会議を開催する。規約を左派優位に改定し、要職が左派で閉められ、共産党に初めて閣僚クラスのポストが認められた。

上海クーデター

1927/3/22 北伐に呼応した、周恩来等が指導する上海の共産党員が、武装蜂起を成功させ、上海に自治政府を樹立。

1927/3/24 共産党員が党代表を務める国民革命軍第二軍、第六軍が、南京を占領。兵士及び暴徒が領事館や教会を襲い、外国人数人を殺害。蒋介石は、自軍に責任がある場合は全ての責任を負い解決するとの声明を発表。

1927/3/26 上海に入った蒋介石は、中国共産党の台頭に不安を募らせる欧米や資本家の団体である上海総商会の意見を受け入れ、支援を取付け、共産党を粛正する「清党」を発動する。

1927/4/12 上海にて、蒋介石の命令を受けた国民革命軍第二十六軍は、武装解除に応じない共産党部隊を攻撃。300名余り死傷か?

1927/4/13 同じく上海にて、中国共産党の主催した労働者大会の後、反蒋介石を掲げる労働者や学生十万人余りが、道路を封鎖。国民革命軍第二十六軍は解散を命じるが、これに応じなかったため、発砲。400名余り死亡か?

1927/4/18 南京国民政府樹立 一時的に共産党を容認する武漢国民政府と対立するが、ボロディンの陰謀が明るみに出て、八月には合流する。

1927/12/1 蒋介石 宋美齢と結婚。交際七年目。

→cf.宋家三姉妹 

 長女 宋靄齢 孔祥熙(国民政府財政部長)

 次女 宋慶齢 孫文

 三女 宋美齢 蒋介石

1928 北伐再開

1928 張作霖爆殺事件

北京から奉天への撤退中の張作霖、日本の謀略により爆死。理由は不明・・・

首謀者の河本大佐は、昭和天皇の激怒を買い除隊。

当時の田中内閣は総辞職。

1931 満州事変

満州国建国

→ 蒋介石黙認 日本との反共同盟には応じず

→ 英米列強 否認

1933 日本 国際連盟脱退

1933~ 張学良への調略

1933 潘文郁による調略 

国民党軍の第五次共産党包囲作戦開始前に、中国共産党は潘文郁を張学良の下へ秘書として送り込み、国民党軍の情報を収集。

1934/10 長征前の諜報活動

中国共産党の長征前、潘文郁は、国民党軍によるソウ共軍事行動などの機密情報を中共中央委員会に報告。

1935 蒋介石、張学良に共産党討伐を指示

中国共産党が陝西省北部に到着。蒋介石は「北西剿共司令部」を設立。副司令官の張学良に共産党討伐の任務を委ねる。国民党西北軍の楊虎城を共産党包囲網に参加させる。

1936/4 張学良、周恩来と合意 

周恩来と張学良は「両国間の軍事戦争、貿易」について合意。当時の共産党軍は僅か2万。張学良の兵力はその15倍。その気になれば殲滅は可能であった。実情はその逆で、機械や穀物を提供していた。

1936 西安事件

張学良(張作霖子息)と楊虎城、同じ漢民族である共産党への攻撃に難色を示す。

→ 蒋介石、説得のため西安訪問。

→ 張学良、蒋介石を拘束、監禁。

→ 張学良、八項目の要求。

八項目の要求

南京政府の改組、諸党共同の救国

共産党の討伐停止

政治犯の釈放

政治犯の大赦

民衆愛国運動の解禁

言論集会の自由

救国会議の即時開催

孫文依嘱の遵守

→ 蒋介石はこれを拒否。

→ 国民政府は討伐軍を組織。

→ 宋美齢、孔祥熙と共に攻撃中止命令。張学良には、書状を送り牽制。

→ 宋美齢、西安に入る。

→ 蒋介石解放

→ 第二次国共合作成立

私見

後日更新

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