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AD.249 魏の司馬懿、曹爽・何晏らを殺害し、実権を掌握す
AD.251 司馬懿 没
AD.265 司馬炎、魏に代り晋(西晋)を建国す
司馬炎は皇族を各地の王に封じ、軍権も与えた。
AD.280 西晋、呉を滅ぼし中華統一す
AD.290 司馬炎 没
皇太子の司馬衷は暗愚と目されていたが、司馬炎は司馬衷の子の司馬イツ(辶矞)への後継を期待し、廃嫡しなかった。
そして中華統一後の司馬炎は、一万人を囲う後宮に入浸り、政治を省みることがなかった。
そんな中、崩御する。
AD.291 八王の乱 始まる
後継者に対する不満と、後継を主張できる諸王に軍権が与えられていたことから、内乱が勃発する。
八王の乱で中央が乱れると、各地では連年飢饉が続いていたこともあり、大量の難民が発生した。これに乗じ、各地の異民族が反乱を起こし始める。
AD.304~316 永嘉の乱
AD.304 匈奴の劉淵、晋朝から独立し、漢(前趙)を建国す
前漢の武帝の時代、漢と匈奴は国土を疲弊させるまで対立していたが、攻撃を強行し続けた武帝の死により、劉氏と攣鞮氏の通婚関係による共存の道へと向かう。南匈奴の王族達は攣鞮を名乗り、その中国名は劉だった。劉一族の血脈を受け継いでいたからである。
劉淵は、魏晋王朝を漢王朝からの簒奪であるとして、自らを正当なる後継であると主張し、漢王と號す。
B.C.87に於ける武帝の死以降約4世紀、地域の安定を保証してきた匈奴と漢両皇族の血を受け継ぐ者であり、確かに家の格式は魏の曹氏や晋の司馬氏よりも遙かに高かった。
劉淵は一族の劉聡や劉曜、重臣の王弥や石勒らを各地の郡県に封じた。
AD.310 劉淵 没
後継者争いが勃発。
石虎 AD.295~349
生立ち
上党郡武郷県(山西省長治市)出身の羯族。
幼くして両親を亡くし、石勒の父である周曷朱の養子となり、石勒からは弟のように扱われた。
羯族
羯族は、石虎の死後AD.350頃に漢人の冉閔による大虐殺に遭い、歴史から姿を消す。
石虎、石勒と離別す
AD.302-303に飢饉が発生すると、石勒に従って故郷を離れたが、永興年間(AD.304~306)に石勒と離別。
石虎、石勒と再会す
AD.311 石虎は石勒の母である王氏と行動を共にしていたが、西晋の并州刺史劉コン(王+昆)により捉えられた。
劉コンは、漢の将軍となっていた石勒への懐柔を目的として二人を送り届け、漢への反逆を要請した。
石勒はこれを断ったが、二人を送り届けてくれた事への感謝を示し、使者を丁重に見送った。
石虎、統制乱れて敗戦す
AD.312/2 建業(南京)攻略に失敗した石勒は、石虎に騎兵二千を預け、撤退までの時間稼ぎを命じる。
石虎率いる軍は寿春に向かう途上、江南から到着した輸送船十隻を発見する。
飢餓に苦しめられていた軍は統制を乱し荷に群がった。
その隙に晋軍の奇襲に遭い、敗走する。
石虎、段疾陸眷と義兄弟の契りを結ぶ
AD.312/12 幽州刺史王浚に従う鮮卑族の段末派を捉えた石勒は、首領段疾陸眷の下へ、捕虜交換を名目に石虎を派遣した。
石虎は段疾陸眷と盟約を交わし、義兄弟の契りを結んだ。
石勒は、石虎を征虜将軍に任ずる。
石虎、城を任される
AD.313、石虎は鄴(かつての魏の首都)を攻略し、後に石虎にこれを任せる。
石虎は程なくして繁陽候に封じられる。
靳キン準、平陽で乱を起こし、漢の皇族を殺害す
漢の外戚の大将軍靳準は、上皇后靳月光が讒言に遭い自死したことに対し、恨みを抱いていた。
讒言を行った陳元達は清廉の士とされ、この讒言は謀略とは見做されていない。
陳元達は宦官に対しても憤慨し、劉聡に讒言するが、皇帝は逆に宦官を列侯した。
陳元達は、この父の行為に悶え憤死した劉易に殉じ、自死した。
恨みの矛先を失った靳準は宦官に近付き、皇室を操り、謀反をお膳立てし、皇室そのものを蝕んでいく。
そしてAD.318/8、娘である皇太后と皇后を通じ、皇帝劉粲に諸公を殺害させ、靳準自らが劉粲を殺害した。更に劉氏一族男女を問わず斬首した。
靳準は胡崇に、「古来、胡人で天子になった者などいない。伝国璽を汝に渡すので、これを晋に返すのだ」と言った。しかしその命を承けなかったので、これを殺した。
靳準は東晋の司州刺史李矩へ使者を派遣し、「劉淵は屠各種(南匈奴の中心種族)の小塊であり、晋の乱れに乗じて天命を詐称し、二帝(懐帝と愍帝)を虜庭(蛮族の地)に幽没させました。今、私が兵を従え、梓宮(皇帝の棺)を運びます。この事を朝廷に上奏されますよう」と述べた。元帝は報告を受けた後、梓宮を迎えた。
AD.318/10、相国(宰相)の劉曜は謀反を知ると、河東の赤壁に至り皇帝の位に即き、靳準一門を除き大赦を下した。靳準に対しては、その行いは誅殺であり戻れば許すとして使者を送ったが、靳準は劉氏を皆殺しにしていた為躊躇った。部下に見限られた靳準は殺害され、靳氏一族一万五千人が帰順した。しかし許されることなく、老若男女問わず皆殺しにされた。
石虎等、称帝を勧める
AD.319/10 石虎等およそ百官は、石勒に尊号(帝位)を称すことを進言した。
これに対し石勒は、周の文王と斉の桓公の二例を挙げて、二人が尊号を称さなかったのに、なぜ私が、と言って断った。
AD.319/11 石虎等29名が、再び尊称を進言した。石勒は再びこれを断るが、全く退かぬ進言に対し、最終的に屈する。しかし帝位には即かず、大単于・趙王を称した。
石虎は単于元輔・都督禁衛諸軍事に任ぜられた。
石虎、大いに略奪す
AD.321 託侯部の堀咄郡を攻撃し、牛馬20万余りを略奪し帰還する。
車騎将軍を賜る。
鮮卑の鬱粥を攻撃し、牛馬10万余りを鹵獲する。
石虎、敵対する義兄弟に敬意を尽くす
AD.321/3 石虎は段匹磾を攻撃した。策により段文鴦を包囲した石虎は、「兄(段文鴦の兄である段疾陸眷は石虎と義兄弟の契りを結んでいた為、彼のことも又兄と呼んだ)と我は同じ夷狄ではないですか。かねてより兄とは家を一つにしたいと思っておりました。今、天はその願いを叶え、こうして会うことが出来ました。なのにどうしてまた戦いましょうや。どうか武器を収めて下さい」と請うたが、「汝は寇賊に過ぎぬ。まさに死すべし。兄(段疾陸眷)が我が策(石勒と同盟を結ばぬこと)を聞き入れなかったが故に、今この様な事態に陥っておるのだ。我は死を恐れぬ。汝には屈せぬ」と反された。段文鴦が捉えられると、敵城の戦意も喪失し、段匹磾は降伏した。石虎は同じく義兄弟の段匹磾からも拒絶されたが、拝礼し敬うと、丁重に襄国へと護送した。
これにより冀州、并州、幽州が後趙の支配下に入り、遼西以西の諸集落は皆後趙に帰順した。
石虎、虐殺を止められる
AD.323/8 石虎は山東に兵を進め青州(山東)を攻略すると、石虎の部下である劉徴がこれを鎮守することとなった。石虎は敵将曹嶷に従っていた人民を皆殺しにしようとしたが、劉徴はこれを諫めた。
「今、この徴を留めようとしているのは、民を牧させる為ではないのですか。その民がいなくなれば、どうして牧することが出来ましょうか!そうなれば徴は帰るのみです!」
石虎はこれを聞き入れた。
石虎、士卒を穴埋めにす
AD.325/5 石虎は洛陽を攻略し、士卒9000人を生き埋めにした。
その後并州に兵を進め、王騰を倒すと、士卒7000余りを生き埋めにした。
石虎、恨みを抱く
AD.326/10 石勒は世子の石弘に鄴を任せようと考えていたが、石虎は鄴を手放そうとはしなかった。外戚で石弘の叔父に当る程遐は画策し、三台(氷井台・銅雀台・金虎台)の修繕を名目に、石虎の居宅を移した。また石虎の陣営全てを石弘の禁兵の下に置いた。石虎は怒り、夜陰に乗じて程遐の妻娘を襲わせた。
石虎、前趙を滅ぼす
AD.328/11 洛陽にて、石勒軍は劉曜軍を撃破し、劉曜を捉えた。
AD.329/1 関中にて、石虎は前趙皇太子劉熙の軍を破った。
AD.329/8 関中にて、石虎は再び劉熙の軍を破り、劉熙を始め王公卿校以下3000人余りを捉え、これを全て処刑した。更に、王公以下5000人余りを洛陽で生き埋めにした。
また、伝国の玉璽、金璽、太子玉璽を石勒の下へ送り、前趙を滅ぼした。
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